昭和・平成の半生

 令和の時代がスタートしたのを機に、今迄の人生を振り返ってみた。

 内容は、自分の中で印象深かった事を列記しており、資料で確認していないので、正確で無いものも含むと思われる。

 

(生まれ)

出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)と鳥海山を望む庄内平野の真ん中に位置する村(旧大和村/現山形県庄内町)で生まれた。


           
                     ( 鳥海山を望む庄内平野 )


先祖は旧庄内藩の武士だったが、明治維新後に、所謂 “清川の戦い”に出兵して、西郷隆盛の明治政府軍に敗れた。 敗戦後、城のある鶴岡には帰らず、この地で商人になった。

 

(小学校)

隣の村落にある小学校まで、約1.5kmの道を歩いて通学した。

有数の稲作地であり、農繁期(田植え・稲刈り)には学校も休みとなった。

学年毎に決まっていた遠足が楽しみだった。 6年生は、仙台・松島だった。


           
                        ( 松島ー五大堂 )


(中学校)

隣の村(旧十六合村)と合併した新校舎(和合中学校)に入学した。

3年の遠足は東京だった。 夜行列車で寝るための座席間板持参とバスで見た東京の夜のネオンサインが印象的だった。

 

(高 校)

旧庄内藩校の流れをくむ鶴岡市の高校に入学した。 同じ中学校から10名入学した。  

鶴岡まで足駄を履いて汽車通学した。 最寄駅(西袋)までの約8kmは自転車で通った。 

2年生の時の修学旅行は北海道だった。 青函連絡船と昭和新山が印象的だった。


           
                         ( 青函連絡船 )

 

(大 学)

仙台市の大学に入学した。 市内の広瀬川近くに下宿した。 下宿には山形・秋田・長野・岡山・広島など日本各地の出身の学生が居て言葉や文化の違いを知った。


           
                          ( 広瀬川 )

真夜中に大学の製図室に通って、卒業製図を描いたのが印象に残っている。

学生運動(安保)華やかなりし時期だったが、もう一つ目的が理解できなかった。

 

(社会人)

大阪の家電の会社に就職した。 配属(研究所)後の20年間は、音響機器関係の事業場の転勤を繰り返し、設計・工技の仕事に携わった。 歴史館にも展示してあるレコード・プレーヤー (DDターンテーブルSP-10) を設計した。

結婚して、交野市に居を構えた。

社会人後半の20年間は、本社スタッフとして家電の電気安全の仕事をした。 業界活動のウエイトが高く、各社メンバーとの交流があって今も続いている。

 

(定年後)

社会人時代以外の世間を知りたいと思い、“浅く広く付合う” をモットーに活動することにした。

 .交野市広報レポーター 交野市の市民生活を知る機会に恵まれ、有意義であった。

 .地域活動 地域には会社OBも多かったが、定年後は違った一面も見られて興味深かった。

 .ホームページ 立上げ後17年が経過したが、2か月更新のお蔭で色々な人から反響があり、最新情報を教えて貰っている。

 

 

 今後、令和の時代を生き抜くための対応を考えてみた。

   体力、知力の許す限り、今迄と同じ生活を続けて行きたい。

   歳と共に進む身体の老化は止められないが、手術(胃・腸・前立腺・白内障など)や治療(ピロリ菌、肺炎球菌など)を行いながらも、健康を保っていきたい。

  (R01、6.30)


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